なぜスウェーデンでは強烈な匂いの発酵ニシン(シュールストレミング)を食べるのか?:寒冷地の知恵と夏の食文化
スウェーデンが誇る「世界一」の衝撃、シュールストレミング
世界の食文化には、驚くほど多様でユニークなものが存在します。中でも、スウェーデンが誇る発酵ニシン「シュールストレミング」は、その強烈な匂いによって世界的に知られています。「一体なぜ、これほどまでの匂いを放つ食品を、スウェーデンの人々は好んで食べるのだろうか?」このような素朴な疑問は、多くの人の知的好奇心を刺激するのではないでしょうか。
シュールストレミングは、塩漬けにしたニシンを缶の中で自然発酵させた食品です。開封した際の匂いは「世界一臭い食べ物」と評されることもあり、その衝撃は想像を絶するものです。しかし、この極めて個性的な食品は、スウェーデン、特に北部沿岸地域で長い歴史を持つ伝統食であり、人々の暮らしと深く結びついています。この強烈な食文化は、一体どのようにして生まれ、スウェーデン人にとってどのような意味を持っているのでしょうか。
厳しい環境が生んだ保存の知恵:シュールストレミングの歴史と背景
シュールストレミングが生まれた背景には、スウェーデンの歴史的・地理的な要因が深く関わっています。
かつて、塩は非常に貴重な保存料でした。特に内陸部や貧しい地域では、大量の塩を使って魚を完全に塩漬けにするのは容易ではありませんでした。バルト海沿岸、特に北部のノールランド地方は、古くからニシン漁が盛んな地域でしたが、同時に冬が長く厳しい寒冷地でもありました。
こうした環境下で、塩の使用量を抑えつつ、魚を長期保存する方法として見出されたのが「発酵」でした。少量の塩で漬け込むことで、魚に含まれる酵素や乳酸菌などの微生物が働き、タンパク質や脂肪を分解してアミノ酸や脂肪酸に変え、独特の風味と保存性を生み出します。この発酵の過程で、硫化水素などの強烈な匂い成分も生成されることになります。
シュールストレミングの製法は、少なくとも16世紀には確立されていたと考えられています。宗教改革の混乱期、軍にニシンを供給する必要があったものの塩が不足しており、塩を減らして発酵させる方法が試されたという説や、単に塩が高価だったために編み出された庶民の知恵だったという説などがあります。いずれにしても、冷蔵技術がなかった時代に、冬を越えるための貴重なタンパク源として、また遠方への輸送を可能にする保存食として、シュールストレミングは重要な役割を果たしました。
夏の訪れを告げる味:シュールストレミングの文化的意味合い
シュールストレミングは、単なる保存食としての側面だけでなく、スウェーデン人の暮らしや文化に深く根ざしています。特に、長く厳しい冬が終わり、短い夏が訪れる時期の楽しみとして位置づけられています。伝統的に、シュールストレミングの解禁日は8月の第3木曜日とされており、多くの人がこの日を心待ちにします。
解禁日を祝うシュールストレミング・パーティーは、夏の風物詩の一つです。親しい人々が集まり、屋外でシュールストレミングを開封し、皆で味わうのです。この「皆で匂いを共有し、乗り越える」という行為自体が、一種のコミュニケーションや連帯感を生む側面もあると言えるかもしれません。
スウェーデン人にとってシュールストレミングは、単に「臭い食べ物」ではなく、厳しい自然の中で生き抜いてきた祖先の知恵、そして短い夏を謳歌する喜びを象徴する存在なのです。
シュールストレミングを「味わう」:伝統的な食べ方と家庭でのヒント
シュールストレミングは、その強烈な匂いから敬遠されがちですが、スウェーデンの伝統的な食べ方を知ることで、少し身近に感じられるかもしれません。
最も一般的なのは、「シュールストレミングサンドイッチ(シュールストレミングクラーマ)」という形で食べる方法です。トゥンブロードと呼ばれる薄いパン(柔らかいものとカリカリしたものがあります)に、以下のものを乗せて食べます。
- シュールストレミングの切り身(内臓を取り除いて骨を取り除く)
- 茹でたジャガイモ(ホクホクした品種が好まれます)
- 刻んだ赤玉ねぎまたは生玉ねぎ
- サワークリームやクリームチーズ
- チャイブやディルなどのハーブ
これらの具材を一緒にパンで挟むか、乗せていただきます。ジャガイモの甘み、玉ねぎの辛味、サワークリームのまろやかさが、シュールストレミングの強い風味や塩味、酸味と組み合わさることで、独特の調和を生み出すと言われています。牛乳や冷たいビール、スナップス(蒸留酒)と一緒に楽しむのが一般的です。
家庭でシュールストレミングを試すためのヒント:
- 入手方法: 日本国内では、北欧食材を扱う専門店や、一部の輸入食品店、オンラインストアなどで見つけることができます。ただし、輸送中に缶が膨張する可能性があるため、購入先を選ぶ際は注意が必要です。
- 開封場所: 非常に匂いが強いため、必ず屋外で開封してください。庭やベランダ、換気の良いガレージなどが推奨されます。飛び散る可能性があるので、服や周囲に注意が必要です。水を入れたバケツの中で缶切りを使うと、ガスや汁の飛び散りを抑えやすいと言われています。
- 保管: 未開封の缶は冷暗所で保管し、開封後は匂いが漏れないよう厳重に密閉し、冷蔵庫で保管し、早めに食べきるようにしてください。
- 匂い対策: 食後も匂いが残りやすいので、換気を徹底し、使用した食器や調理器具はすぐに洗うことをおすすめします。
- 食べ方: まずは少量から試してみてください。伝統的な食べ方を参考に、ジャガイモや玉ねぎ、サワークリームなど、他の食材と組み合わせてマイルドにするのがおすすめです。
- 代替品: シュールストレミングのような強烈な発酵魚製品は世界でも珍しく、完全に代用できるものはありません。しかし、日本の「くさや」や東南アジアの魚醤(ナンプラー、パクリャットなど)も魚の発酵による強い匂いや風味を持ちますが、シュールストレミングとは製法も風味も全く異なります。
強烈な匂いの向こう側にあるもの
シュールストレミングは、そのあまりに特徴的な匂いから、しばしば「罰ゲーム」のように扱われることもあります。しかし、その強烈さの裏側には、厳しい自然環境で生き抜くための人間の知恵、そして文化や共同体の絆が息づいています。
スウェーデンの人々がシュールストレミングを食べるのは、単に「臭いから」ではありません。それは、歴史に育まれた保存技術の賜物であり、夏の訪れを祝い、家族や友人と特別な時間を分かち合うための文化的な行為なのです。
世界の食卓には、私たちがまだ知らない驚きと発見が満ち溢れています。シュールストレミングのように、一見理解し難い習慣にも、その土地の歴史や人々の暮らしに根ざした深い理由があります。食文化の「なぜ?」を探る旅は、私たちの世界観を広げ、多様な価値観に触れる貴重な機会を与えてくれます。